12年前、乳癌になった。手術、放射線と、前向きに治療を受けてきたが、抗がん剤治療がはじまって、ガクリときた。いつもは食欲を唆る匂いも、普段は気づかないような僅かな匂いでも、気持ちが悪い。特に、インスタントラーメンや人工調味料などの、添加物の匂いに敏感になり、吐き気を催してまう。
鹿児島の義母が、心配して、東京まで訪ねて来てくれた。怖くて飛行機には乗れないので、バスと新幹線を乗り継いで、1日がかりで来たという。
「食べれんとね?食べれんねえ」
義母は、リュックの奥から、新聞紙に包まれた、黒い瓶を出した。
「んだは、これさ、なぶれ」
蓋を開け、スプーンで、すくって、私の口元へもってきた。私は、匂いを恐れて、とっさに首を横に振った。
「ほれ、口、あけてみれ、ほれ、あーん」
「やめてください!」
子供あつかいされたような口調に、つい、イラッとして、声をあげてしまった。義母は、びっくりして、慌てて手を引っ込めた。
「かんべんな」
寂しそうに、瓶をベッドの脇に置き、部屋を出て行った。
持病がある体で、無理して来てくれたというのに、ひどい態度をしてしまった。
瓶を手にとってみる。ずしりと重たい。恐る恐る蓋を開けると、ふんわりと、甘く香ばしい匂いが漂ってきた。黒蜜だ。
ーあれ?いい匂い?ー
恐る恐る、唇に塗るように舐めてみる。柔らかい甘味が、舌先に伝わる。
ーあれ?気持ち悪くならないー
思い切って、一さじ、口に入れてみた。
ー……おいしい……ー
舌になじみ込んで来るような、優しい香りと味。口の中に溶け込むように広がってくる。
覚えのある味だ。義母の家の味だ。
「お義母さん。ごめんなさい。これ、おいしい」
義母は、嬉しそうに微笑んだ。
「無添加の黒糖だけで作った黒蜜だ。黒糖は島ごとに味が違う。奄美んのは、少ししょっぱさがあってな、口の中がさっぱりする。悪阻になった時、よう舐めとった。じゃって、よかろうと思ってな」
義母は、ガサガサと、リュックから、タッパをいくつも出し始めた。角煮、あくまき、薩摩揚げ、みんな義母の手作りだ。
「余計なものは、なーんも入っとらん。人間の身体は自然の一部だ。食べもんも、自然のもんだけで作れば、自然と体に入っていってくれる」
それから無添加にこだわるようになった私は、乳癌の節目の10年を、健康に乗り越えることがてきた。
「はい、お義母さん、あーん」
今は私が、手作りの黒蜜を、お義母さんにもっていく。