昭和二十一年五月に父は復員した。痩せ細った父は、南方の戦地で食べるものもなく戦って来たのであろう。
目は爛々と光らせて戦争はまだ終っていないかのようであった。
日本は大空襲に合い全国的に食べるものすらない貧しい生活を送っていた。
そんな貧しい生活の中、ある日四歳になる私を連れて山に分入った。山には独活(うど)、土筆(つくし)、薇(ぜんまい)、蕨(わらび)が無数にあり、父は私に教えながら次から次へと取り、大きな籠がみる間に一杯になった。
父は籠一杯になった山の幸を見届けると、
「そろそろ買えるか。Tよ、これはすべて食べられるのだよ。美味しいぞ」
そう言って、にこっと笑った。
家に帰ると、母は味噌汁の中に入れて食卓に出した。食べると実に美味しい。食べるものもない中で、余計に美味しく感じたのかも知れないが、とても美味しいものであった。
沢山収穫して来たので三日間、同じものを食べ続けたが、実に旨い。私は味噌汁の御代わりをしていた。
収穫して来た山の幸が無くなると、また父は私を連れて山に分入り山の幸を収穫した。不思議なもので先回ほとんど取った山の幸がまたいっぱい収穫することが出来た。
夏になると父は私を連れて朝四時起床で近くの鈴鹿川に出掛けた。
父は手に薄い花瓶のようなものを二個持っていた。私はかなり大きな魚籠を持たされ、まだ眠気の覚めない状態で川原に着いた。
父は瓢箪のような瓶の先に草を詰めながら尻の方の小さな穴から魚が入り、入ると出れなくなるのだ、と教えた。
鈴鹿川の少し流れの速い所へ、その瓶を置いて流れていかないように、しっかりと凧を上げる紐で括りつけて置いた。
さ十分ほどしてその瓶を見に行くと、魚がいっぱい入っていた。勿論、瓶の中には魚が食べたそうな蚕の蛹を潰して入れてある。
私は驚いてしまった。わずか三十分ほどで瓶の中には魚が黒くなるほど入っている。
父は、場所を変えて、もういちど瓶を流れの中に置いた。三十分ほどして見に行くと、瓶の中は黒くなるほど魚が入っている。
父は、魚の腸を私に教えながら取り去った。帰ると、母はコンロの中に炭火で魚を焼く準備をしていた。
収穫した魚を次から次へと焼いて朝飯の御数にした。醤油だけを付けて食べる。私は初めてのことであったが、とても旨い。魚だけを次から次へと食べてしまった。父は、
「おいしいか、Tも早く魚取りが出来るようになってほしいけど、まだ無理かな」
「出来るよ、父さんのやることを見ていたからこの次からやってみる」
父は、にこにこして
「よし、やってみろ」
と、力を込めて言った。私は父から教えられた通りにやってみた。魚が取れる、しかも父でなく自分が取っている。私は、自分の仲間にも言ったが、そんなこと出来る訳ないだろうと、相手にされなかった。
秋になると父は、茸狩りを私に教えた。勿論秋の味覚である栗取り、自然薯取り等を父は私に教えた。
私は、山の幸、川の幸を父からの教えで恵られて小学校に入学する頃には一人で山や川に行くようになった。
父の教えは、大人になっても続いた。山の幸、川の幸を求めて朝早くから山に分入り、川へと幸を求めて夏休みには毎日出掛けた。
スーパーで買い物をする時も私は無添加のものにこだわっている。今現在七十九歳になっても山の幸、川の幸を求めている私である。